昨日は、ワクチン副反応からも復活し、月に1度の、父とのお墓参りに行ってきました。
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車窓から桜たちを満喫
毎月、母か姉の月命日近辺に行く、父とのお墓参り。
昨日も予定通り、実行されました。
実家まで、久しぶりの片道1時間の一人ドライブ。
道も空いてて爽快。
車窓から所々に見える、散り際の桜が目を楽しませてくれました。
一方、枝垂れ桜や、八重桜なのか、今が満開の桜もちらほら。
そして、昼食に立ち寄ったお店の枝垂れ桜が美しく、風にゆられていました。
思いがけず綺麗な桜を発見すると、得した気分!
霊園の桜
霊園にも、散り際の桜がありました。
もうちょっと、うちのお墓の近くにあったらいいのにな、と完全に自己中な私💧
姉は亡くなる前の入院中に、その年の桜、花見に行くことを夢見ていたのですが、
とうとう開花を前に亡くなったのです。
文字にすると、なんてちっぽけな夢。
しかし、叶わなかった。
これが、私の桜に対する想いを複雑にしています。
母の時もそうですが、亡くなった頃の季節の匂い、風景、これがずっと染み付いているのです。
そこからの時の多さと関係なく。
日本には素晴らしい四季があり、素晴らしい景色があると同時に、
遺されたものはその季節が来るたびに、その寂しさを繰り返し味わわなければならないのです。
実家の片付け
月に1回、実家に行くもう一つの理由として、家の片付けがあります。
物を溜め込む性質の母が逝った後は、父が一人で暮らすには不要なものがあまりにも多く、
片付け、と言っても大半は処分という形になるんですが、その手伝いをしています。
母が亡くなって3年以上経ちますが、まだ1つ大きなものが残っていました。
それはマンション敷地内で借りている、個人の倉庫。
ここには当時片付けられなかった姉の衣類や、そのほかマンションのリフォームの時に突っ込んだ、
取りあえずの不用品たち。
長年熟成されたものであります。
埃だらけの不用品。
偶然ここに閉じ込められて、何十年というものもあります。
一つづつ、処分されていくのを考えてみると、私のこの家での20年の暮らしそのものの終わりを感じざるを得ないのであります。
いずれは、家そのものも無くなって、気持ちだけが取り残されていくのです。
物はただの物体となり、涼しい顔をしてこの世を去るのです。
となんだか春に相応しくない、センチな気分の文章になりました。
あしからず。
来月は、もう新緑の季節かな!
ハナミズキも楽しみなのであります(๑╹ω╹๑ )